植物は朝日和

出勤の最終日、空は高く澄み渡り8分咲きの桜が私の背中を押していた。 今日から有給休暇、しばらくはのんびり生きてみたい。本と植物があれば日々は輝くはずだ。

サザンクロス どこそこの誰それさん

すっかり秋も深まり、冬がすぐそこまで来ている。

今日はお散歩するつもりではなくて、少しだけおめかしして、ヒールを履いて歩いていた。

石畳の道はヒールの先が食い込みやすくて少し歩きにくい。

あれからもう1年経ったのかと時間の経過を想う。

秋のバラは少し小ぶりで、それでもしっかり咲いていて、それぞれ個性あふれる香りを放っている。

1つずつ確かめるように歩を進めていると、先を進んでいたはずの人がいない。

勝手にどこか行くなと悪態をつきながら、でもどこか諦観の念でいる。

振り回されて、振り回されて気遣い疲れて歩くよりも、1人のんびり歩いて、勝手にどこかに行った人を待ちぼうけ食らわせてみるのもいいかもしれないと思う。

さすがにどこかで待っているのであろう。

携帯でもいじっているのかもしれない。

待ちぼうけを食らわせてやると決めると、少し腹立たしかったのが、いたずら思いついた時のように少し機嫌が上向く。

日傘をくるっくるっと回しながら、ヒールは弾むような足音をだす。

香りに誘われたのか、蜂の羽音が聞こえてきた。

行く先をなんとなしに目で追うと、サザンクロスの花が咲いている。

秋の哀愁漂う色でなく、私を認めてとばかりの色で、かわいいと分かっているだろう姿かたちでサザンクロスの花が咲いている。

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南十字星、元はケンタウロス座の一部だったのか星座によくある神話とは結びついていなかったはずだ。

それでも、南十字星として認識されて確かに今、天空に輝く。

このお花も元は何かの1つだったのかもしれないけれど、今確かに存在が認められてかわいい花を咲かせている。

世の中もそんなものかもしれない。

最初は誰かの子供として認識され、どこどこ学校の誰かとして認識され、誰かの恋人だと認識され、そしてどこどこ会社の誰それさんだと。

何かの付属品かのように扱われているけれど、そのうち私個人を評価してくれる人たちが出てきて、そういう人たちに囲まれて助けられ、支えられ世代交代をしていくのかもしれない。

誰かが作った人脈をそのまま譲り受けることなんてできないし、新たに作り上げた人脈を前の世代に譲り渡すこともない。

それぞれがそれぞれの人生の中で、大切だと思うものを日々取捨選択し生きていく。

私個人を主体として人が私を見てくれるようになったとき、今まで私を庇護してきてくれた何かのように、誰かのように、次は私が私と言うものを使って何かを守るようになるのだろうか。

キコガサダケ ?

面白半分に手相占いの携帯アプリを入れたという友人に、手相の写真をとられた。

結果、芸術家の悲観主義らしい。

生きるのに苦労しそうな話だ。

しかし、大元の頭脳線は強く、財運線は素晴らしいとの事だった。

一方、後天的に身につけた悲観主義は、失敗からの復活を遂げやすくする思考回路を作ったらしい。

こうやって文言を並べると、人と違った感性でやりたい事をやって失敗しても、リカバリする力があるからなんとかなるといった具合か。

でも、やりたいことには一直線。

やりたいことを諦めることはないのか。

これはもしかして、植物みたいな人間か。

人の言うこと聞かずに太陽に向かって好きに伸びて、そっちは違うって矯正されても自力でなんとかする植物。

 

去年春、感嘆の声をあげた白梅の木が年越しを待たずに伐採された。

そして今、手毬のような花を見せてくれた八重桜がなくなった。

私は1期しかこの子たちの花盛りを知らない。

一昨年はわからないけど、それは見事な様だった。

最後の花は美しいのだろうか。

わかっていたのだろうか、今季が最後だと。

豪雨の長雨は土を抉り、厚い雲は日光を遮った。

大したことない被害でも、それでもやっぱり補修は必要で。

根が露出した植物の鉢に土を足し、雨に叩きつけられて落ちた葉を拾い集める。

緑になりきれない新芽は、葉先が茶色く丸くなっている。

やっと顔をだした太陽に、黄緑の葉を目一杯広げて早く強くなろうと頑張っている。

外部からできることは多くない。

せっせと落ち葉拾いをしていると、ニョキッとキノコが、いた。

動きだしそうなヌメッとコロッとした姿。

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童話や昔話でキノコが動くのは良くあること。

それが実感を伴って、キノコが『いた』。

 

人が作り出した物語は面白い。

最初に感じとった気持ちの積み重ねや思いが脳内に具現化し、文字になる。

動き出した話はもうとまらない。

後は、文字にする作業に悩まされるばかりである。

ウチワサボテン 疑いのトゲ

歩いていると野生化したウチワサボテンに花が咲いているのを見つけた。

ここまで大きくなるまで、除去されなかったのは珍しい。

土手だからだろうか、管理者である行政はこのサボテンを知っているのだろうか。

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先日、仲の良い友人が入籍した。

ずっと彼の話を聞いていて、結婚するって聞いてすごく嬉しかったのを覚えている。

できればその日におめでとうって言いたくて、日程聞いたからお祝いのメッセージも送ったけど、せっかくならとプレゼントも送っておいた。

当日の夕方に着予定だったのだけど、事前に来局受け取りに変えたらしい。

ちゃんと着いたかな?と番号追跡してわかった。

『当日って忙しいんじゃない?』って言ったら『家にすぐ帰るよ、次の日は仕事だし。』って答えてた。

まぁ、普通のカップルなら幸せの絶頂というやつで、夕飯作るのでさえ楽しいだろう。

私の入籍時はといえば、結納のバタバタで疲れ果て、これってやっていけるのかと心配した当日だった。

結納の一カ月前になっても打ち合わせも時間も婚家から連絡がなく、時間感覚の差に疲れ果てていた。

昔なら仲人さんがいて全部やってもらって、嫁など振袖を着て黙って座ってれば良かったのだろうけど。

現代はそうはいかない。

我が家は、というべきか。

桜茶や丸いお菓子、御膳の手配、花を生けたりしながら振袖を着る時間を捻出。

着付けに向かう母の後ろ姿を忘れない。

多分、私以上に神経質なまでに気をつかう母だから苦労しただろう。

こういう時の男は楽だ。

家のことは女の仕事とばかりに、相手と話して飲み食いすれば良いのだから。

そうはいっても、片付けは父には力仕事で強制参加してもらった。

話は逸れたが、友人は結納はしないし同棲もしていたから名前が変わるだけと笑っていた。

そして入籍から3日たった今になっても、まだ受け取りに行ってくれてないらしい。

勝手に送ったのに、来局にしといて受け取りに行ってくれないと不安になるのも失礼だとは思う。

受け取りに行くのを忘れられていたらどうしよう。

再配達なら不在通知がはいるので意識付けになると思うが、来局、忘れるんじゃないか。

私の心もトゲトゲだ。

最初はこの花のようにワクワクした気持ちで、どんな反応かなぁと楽しみだった。

当日、なんの反応もなくて疑問を覚えた。

翌日、番号追跡して残念に思った。

今日、番号追跡なんてなければ良いのにと責任転嫁した。

明日、多分もう忘れる努力をする。

トゲトゲのウチワサボテンには赤い実がなる。

ヨーロッパではポピュラーなくだものらしい。

すごく気になるが、外側のトゲがついた皮を外せるだろうか。

箸でつまんで切り落としてみようか。

ヨーロッパの人たちはどの様に触るのだろう。

水玉ドットのようなトゲのかたまりは、細く透明にちかい小さなトゲが集まっている。

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でも、好奇心に負けて食べてみようと思う。

トゲトゲのサボテンの副産物は甘いという。

私のトゲトゲも甘い話で終われば良いのだが。

オオイタビ 海岸の道

 

今日は釣りについてきた。

だが、あまりにも暇だった。

釣れはするのだが、やはりあまり興味がわかない。

餌をつけて投げる。

ウキが沈んで、手元には震えが伝わる。

リールを巻いて、魚を外して。

また、この繰り返し。

作業のようだ。

というわけで、今日は海辺の散歩。

とはいっても浜辺などなく、漁村のような道である。

杉板であっただろう家の残骸は白くなり、窓だったであろう場所からは倒れかけたスピーカーが見える。

それでも植物の生命力は果てしなく強く、ハマヒルガオが朽ちかけた家を飲み込もうとしている。

所々に浜木綿が顔を出す。

以前の住人のものだろうか、大きく育ったアロエがなんとも言えない情緒を醸し出している。

一方、お隣のお家は自然に抗うように、木組みの門から玄関までのアプローチをコンクリートで固めてあった。

その両隣には畑が広がっていて、ナスと南瓜が紫や黄色の花を咲かせている。

家の裏の山肌に等間隔に植えられた紫陽花が印象的だ。

そして、見つけた黒紫の実。

海の近くの生垣に、黒紫の実がなっている。

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「これは、なんだ。」

まだ緑色の実はイチジクの未熟実に似ていた。

たくさんの黒紫に熟した実は所々傷ついて、その断面はイチジクによく似ている。

しかし、どう見ても葉が違う。

人様のおうちの生垣を食い入るように見つめてしまう。

おうち、というより畑の防風林がわりのような生垣だったのが幸いか。

最初は畑に目が行き、気づかなかった。

道に落ちた大きめな実に、足をとられそうになってはじめて意識が向かう。

「あとで調べよう。」

食べられるような、食べられないような不思議な実。

いったい何物なのだろう。

頭上をトンビがヒュー、ルルルルルと飛ぶ。

見上げた空は青く、太陽は厳しい。

目指した神社は目の前だ。

自販機のモーター音が冷たい飲み物を知らせる。

バス停が目についた。

1時間に1本あるかないかの時刻表、日差しを避けるベンチにしても咎める人はいない。

一休みしようか。

 

そういえば先ほどの植物はオオイタビというらしい。

クワ科イチジク属、常緑つる性の植物。

なんでも、雄株と雌株があり、雌株の実は食べられるとの事がネットでわかった。

それにしても、生垣にしては大きな実だった。

食べられるのだろうか。

お味はいかほどか。

「いやいや、人様の生垣の実をとることはないけど。」

イチジクは確かイチジクコバチがいないと受粉しない。

日本にいるのだろうか。

イチジクの生態について考えようとして、やめた。

今の私にとって、子孫繁栄やら生殖の話は嫌気が差す。

『私に言うな、自分の息子に言え。』といえたらどんなに楽だろう。

先日会った義父を思い出してしまった。

当たり前とは、なんなのだろう。

夫婦仲はよいのだ、この話題を挟まなければ。

所詮は自分ではない他の人、自分の思い通りにはいかない。

でも、やっぱり、イラつく。

人の気持ちを思うことをできないと諦めた人に説明しても上手くはいかない。

この場だけ逃げ切ろうとする人なのだから。

だから、庭が欲しい。

突拍子もないと言われるかもしれないが、確かに私の中では理論整然とした事なのだ。

私の、私がいないと成り立たない植物が、ここに存在しなかった植物が、美しく咲く。

いや、美しく咲かせる。

植物たちは測ったように正確には動かない。

病気もするし、虫に食われることもある。

枯れてしまうことも、大きくなりすぎることもある。

それでも手をかけた分、思った分だけ一喜一憂させてくれるのだ。

 

手元のお茶もなくなった。

木陰は優しく、暑さを少しだけ忘れさせてくれる。

自然は優しい。

さぁ、進もうか神社まで。

そして神様に『こんにちは』をしたら帰ろう。

釣りに夢中で、私のことなど気にも留めていないだろうあの人のところへ。

今日の夕飯は何にしよう、帰って魚を捌く元気は残っているだろうか。

苺 価値は様々

さて。

そろそろ、動き出して良いころだろう。

暇ではないが、体はなまる。

歯磨きも可愛い植物たちを眺めながらできるほど時間がある。

読書して、お散歩して。

料理して、寝る。

幸せといえば幸せな日々である。

元よりインドアな人間だ。

 

たまに見つける可愛い子をお迎えして。

クレマチスなどは捨て置かれていたとは思えないほど元気だ。

シークワサーは、地元の園芸店だと似たような株が半値だったので落ち込んだ。

レモンのリスボンが横にあったので、ヤケクソ気味でお迎えした。

シークワサーもレモンもたくさんの小さな実が付いているが、どれくらいが残るのだろう。

悔しい気分が治らないので、シークワサーは八重咲きジャスミンとともに明日お迎えに行こうかしら。

そして私の前に鎮座するこれは多分、今年最後の苺だろう。

加工用の苺が箱で2箱ある。

ただただヘタをとって切って砂糖をまぶす。

もくもくと30分。

綺麗な模様になったではないか。

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煮込むこと30分。

ジャムチャレンジ決行。

底に着く前に水の中でジャムが解けてしまう。

追加で加熱10分。

再度チャレンジ。

今度は底まで球体のまま辿り着いた。

落とすジャムは2滴以上。

一つは妖精さんの分だ。

頭おかしい奴と言われようが、ヨーロッパでこの妖精の分という言い分を聞いた時、私もジャム作る時はやっておこう!と思った。

昔から言い伝えられているものには訳がある。

と半ば信じている。

うなぎと梅干しの食べ合わせのように、時の将軍が食べすぎな庶民を戒めるためとかあるかもしれないが、『妖精さんの分』は気に入っている。

幸せの四つ葉のクローバー

幸せの馬蹄。

夜切る爪は『鷹の爪』。

家族が帰る前に揚げ物をするときは、無事に帰るようにコップに水を張る。

大抵はジンクスとして人を主体としている。

妖精さんの分はイタズラされない対価なのかもしれないが、喜んでくれるなら良いと思う。

 

煮沸消毒した瓶にジャムを詰める。

空気圧を利用して密閉。

瓶ごと沸騰させたあとに逆さまにならべていく。

1〜2年は無添加でも保存がきく。

今年は次々持ち込まれるのでかなりの量ができた。

朝のヨーグルトはしばらく苺味だ。

そして今、瓶の蓋があかなくて困っている…空気圧で閉めたなら瓶ごと温めて中の空気を膨張させてみようか。

人を頼るより、可能性を探ろう。

アザミ 涼しげにそよぐ

近頃かなり暑い日と肌寒い日が交互にやってくる。

日除けなのか防寒なのか、どちらにしろ長袖の羽織ものは必要不可だ。

そして、相変わらず日傘。

「日焼けはいやだし、帽子は風で飛ぶんだよね。」

化粧は最低限で、マスク装着。

そろそろ、マスクが暑い時期になろうとしている。

さぁ出発だ。

土手までの道のりはいつもの道と真逆の方向。

家をでたら、今日は左だ。

車では何度も通ったが、歩くと違う風景が見えてくる。

落ちるに任せたさくらんぼ。

少し色づき始めた梅の実。

花芽が上がってきた花菖蒲。

こちらのお宅は紫色で小川の脇は黄色の花菖蒲のようだ。

漂ってくるのは藤の香りだろうか。

門邸に絡み付いた白い藤と壁の上に見え隠れする紫の藤。

もうずいぶん散り始めている。

目の前を大きな蜂が横切った。

藤に巣を作る蜂は針がなく刺さないらしいが。顔に向かってくれば流石に避ける。

藤を庭に植える勇気に拍手を送りたい。

庭藤ならまだいける気がするが、藤は私の手に余る。

「綺麗だし、香りも良いから憧れはするんだけどね。」

蔓を誘引するなら葡萄が良い。

カーポートの上に誘引したい。

手が届くギリギリに実をつけさせれば、今の車高では問題ないはずだ。

私の中で、つるバラは壁際の印象がつよく、蔓とはまた違う認識だ。

蔓とは籠が編めるものだと勝手に思っている。

考え事をしていると時間はすぐ過ぎる。

歩きながらの考え事は雑事であれ学問や仕事の段取り整理であれ、昔からよくすすむ。

ルームランナーはすぐ飽きて何か他の事をしたくなるので、外を歩くのが好きだ。

以前、ルームランナーで早歩きをするのが暇すぎて、本を読んでいた事がある。

これは本に夢中になりすぎてルームランナーより早く歩いてしまい、バランスを崩して危険だった。

ベルトの前のプラスチック部分に足を踏み出してしまったのだ。

やばいと思った時は、かかと部分だけがベルトに引っ張られ、次の踏み出しのタイミングが合わずによろけた。

ならばスピードを上げれば良いのかといえば、物語の佳境の部分でしか歩行スピードは上がっていないようで通常のテンションでは早すぎる。

多分、外歩きは無意識に安全確認や危機回避をしているので暇にならないのだろう。

車だ、猫だ、道が窪んでいる。

そんなことを覚えてはいないが、避けている。

土手は車は通れないが、土手の下に車が何台か駐車されている。

「暑い…」

横目に見えるアザミは木陰で涼しそうに揺れている。

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それにしても暑い。

お茶を持ってきててよかった。

犬の散歩をしてある人達とすれ違う。

車の持ち主達はどこにいったのだろうか。

歩いているとなぜ歩いているのか分からなくなってきて、歩調が早くなっていく。

犬がいるわけではない。

子供がいるわけではない。

声が、痛い。

働ける人間が、働くのをやめて。

日常の幸せをただ日常にしている人達のなかで、途方にくれる。

『役割』

そんな言葉が脳裏を過ぎる。

家事してご飯作ってお弁当もたせて。

余った時間を散歩したり、読書したり。

使えない生地で枕カバーやルームパンツをつくったりしても、金銭を得ているわけではない。

朝から夜まで時間に追われて、方々に意識を張り巡らせて、疲れて帰って家事をして。

それでも社会の歯車であるという自意識は、私を役立つ人間のように思わせてくれた。

 

ひとまず、木陰にはいろう。

アザミはトゲトゲしてるけど、木陰で風に揺れている。

花束 つれづれと思う

たまたま行った直売所で一株だけ残ったクレマチス

色も何もわからないが、お迎えすることにした。

昔、実家には祖母が育てたテッセンがあった。

紫色の大輪で、初夏に咲いて、冬は葉がなくなる蔓の花。

枯れたように見えるけど、よく見ると芽が春を待っていることを教えてくれた花だ。

私が園芸を好きになったのはこの祖母の影響だと思う。

細長い庭で1番奥に南天、その横に一重の梔子と山椒の木。

梔子の香りはしていたはずだけど、庭の1番奥まで入っていくのは稀で香りまで記憶していない。

梔子の実がなると収穫していたのははっきり覚えている。

料理に山椒の葉を使うときは若い芽を選んで摘みに行っていた。

私の部屋からは紫式部が見えていて、紫色の実がなるとホトトギスと一緒に小学校に持っていっていた。

今はどうかわからないが、小学校には花瓶があり、花を持ち込む児童生徒が少なからずいた。

そして、窓の下には増えに増えたレモンバーム

今思えば入ってくる虫がすくなかったのは、窓の下のハーブのお陰だったのかもしれない。

そして、何より記憶にあるのは真っ赤なバラだ。

『バラが咲いたよ、切りにいこうか。』

花開くたびに祖母が私を呼びにくる。

ガクが開いたらそろそろ。

花びらが少しほどけてきたら切り時だ。

幼かった私に祖母は『ここから切ってあげてね』と5枚葉の少し上を指差す。

私が知らない、ずっと前から玄関の戸棚にある鉄の選定鋏を握りしめ、何度も『ここで良い?』と聞きながらバラを切る。

切ったバラは色々な色が混ざった細長いけど重たいガラスの花瓶に生けて、床の間に置く。

これがいつからだったのかはわからない。

物心ついた幼稚園の時にはもう定番だったのは覚えている。

工作に使うのと違う、重たい鋏を持って綺麗な赤いバラを切って花瓶に生ける。

今思うとなんてことない作業だが、幼心に感じるものがあったのだ。

語彙力もなく、漠然としたあの暖かい思い。

そして今もまだ、私の語彙力は足りない。

鋏は私が家を出るときに新品を探したのだが、見つからなかった。

バネもプラスチックも何もついていないただ鉄を曲げて作られた、全部の指が入る丸い大きな持ち手の昔ながらの選定鋏。

根鉢を土ごと切ろうと痛むこともなく、パンジーの花がらもグレープフルーツのしなる枝も切れていた。

私の園芸鋏の認識はこれであったので、置いてある店がないとわかった時はびっくりした。

おかげで私は今、土にも使うの鋏、枝を切る鋏、ピンチ用の鋏、花を生ける鋏の4種を持つことになった。

当時つかせて頂いていた華道の先生にお尋ねしたら『売ってるのは見たことがない』との事だったので相当古いのかもしれない。

 

そして私は今日もベランダの植物たちに水をあげる。

主人は今日も帰らない。

明日も明後日も。

入籍記念日に届いた花束と座る人がいない椅子。

手元のミシンはテンポ良く進む。

無事であると願いつつ。

健康ではあるのだ。

ただ帰れないだけ。

そして、私は元の職場に顔を出しに行く予定だった。

それもまた先送り。

また、会えるから。

 

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